たまたま、本当に偶然目にした記事に思わず惹かれて記事を読んでいた。
いつか迎えに来てくれる日まで と言うブログ
最初に目にした記事は「死を嗤う人々 ~死のリアリティ~」
これはよく耳にする「もう死んじゃいますよ~」などの言葉に対するブログ主の死別を経験した者のみがわかりえるメッセージが刺さる記事でした。
しかしこちらの他の記事を読み進めていくうちに、涙が止まらなくなってしまった。
あまりに美しい夫婦の愛情とそれを何の飾りもないストレートな表現で、的確に書かれていたからなのでしょう。
ひとつひとつの言葉が美しく、もの悲しく、重たく響くブログです。
母をすい臓がんで失ったあと、父はまさに「生きる目標を失い」さまよい続けていました。
娘とか孫とか息子とか自分の母親とか、そういうものは別の次元にあるようで、やはり自分の分身、半身である妻を失う事は想像を絶するものだったようです。
数年後、父の車のトランクからは母のそばにいくための道具がありました。
父が母の死から目の前の娘と孫に目が向けられるようになったその時に、それは娘の遊び道具としてもらう事ができました。(粘土)
それでもやはり彼にとって、今の人生は母がいた時とは違います。
年をとって生活するための仕事を失ったとき、また母のそばに行こうとしました。
まだまだ立ち直ってなどおらず、自分の生きる意味など見いだせずにさまよっています。
それでも2回目に母のそばに行こうとしたときはかなり本気でしたので、失敗して私に見つかり
「何か意味があってまだここにいるのかもしれない」と少し思ったようです。
少しづつ、少しづつ今を生きています。
愛する者に愛され、愛情を残した人間の言葉はどうしてこうも人の心に響くのでしょうか。
いつまでも残されたものに響き続けるのでしょうか。
愛する人を愛し、愛された人間の慟哭はどうしてこんなに美しくもの悲しいものなのか。
天寿とはいったいなんでしょう。
逢いたい、また逢いたい。
去ったものはどれだけ去ることが辛かったのだろうか。
とても言葉になどできない。
今日は少し、センチメンタルな記事ですみません。
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