3月11日目の前で母を見捨てなければならなかった少女震災の日 あの時私は

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東日本大震災

5年前のあの日 その震災は起きました。

警察庁の10日までのまとめによりますと、これまでに死亡が確認された人は12の都道県の合わせて1万5894人、行方不明者は6つの県の合わせて 2561人となっています。また、復興庁のまとめによりますと、避難生活による体調の悪化などで亡くなったいわゆる「震災関連死」は、10の都県で少なく とも合わせて3407人に上り、震災による犠牲者は、「関連死」を含めて2万1000人を超えています。

NHK引用

2万人以上の方が亡くなった震災。2万人と数字にされても、その悲しみは数字ではとても表現できないものとなって今も傷跡を残しています。

生きている母をおいて逃げなければならなかった少女が高校生になりました

当時少女はまだ小学生。
地震による津波により流された少女が目を覚ますと(気がつくと)近くに母親の姿がありました。

母親は大きながれきに足を挟まれ、動けない状態でした。

少女は小さな体で、一生懸命母親を助けようとしました。

しかしどう頑張っても母親を引っ張り出す事ができません。

また津波が来る。

また津波が来たら間違いなく自分もまた流されて、生きている事は出来ないだろう。

 

少女は悩みました。

 

きっとこの時の少女の気持ちは察するにあまりあります。

 

そしてその場を離れて逃げる事にしました。

しかし母親は「行かないで」と

 

 

少女は「ママ 大好きだよ」と声をかけて、そして逃げる事しか出来ませんでした。

 

 

後日母親は遺体で発見されました。

 

これがどれだけ辛く、悲しい決断であった事も考えただけで苦しくなってくる程です。

それでも少女の本当の心の内など他人にわかるはずもない事はわかっています。

TVに取り上げられたケース以外にもたくさんの悲しみが

ある少女は津波が来たので祖父と逃げた。

しかし津波で水のカサがどんどん増えて、その勢いも増すばかり。

そんな中、ひとつの電柱に少女と祖父はつかまってふんばっていました。

すると上で声が。

それは電柱の傍に建っている一戸建ての2階から「上ってこい」とカーテンを垂らしてくれています。

祖父は「お前が先に上りなさい」と。

少女は必死に上り、なんとか助かりました。

次はおじいちゃんと振り返ると、、、

 

そこにはもう祖父の姿はなかったそうです。

流されてしまったのでしょう。

 

みんな本当に壮絶な体験をされています。

 

愛する家族を突然失う苦しみ。

父親だけ生き残り、妻と子供を失った家族もたくさんあります。

 

神様はいるのだろうか。誰かが悪い事した人のせいで罪のない人が自然の怒りを代わりに受けてしまったの?

善意を食い物にする悪いやつら

震災を経てたくさんのNPOなどが復興に乗り出した際に、国からのお金を食い物にした悪魔のような奴らもいます。

どうして天罰はくだされないの?

私にはわかりません。

 

ただただ亡くなった方々のご冥福をお祈りします。

3.11 あの日私は

5年前のあの日、私は仕事をしていました。

自宅から1時間ほどの場所の都内に打ち合わせのために電車で出かけておりました。

ちょうど打ち合わせをしていた時のこと。

カタカタと音がして「地震かしら?」とお客様と話していました。

すぐに収まると思っていたのに、揺れは強くなり淹れて頂いたお茶がこぼれてしまいました。

しかしほどなくして揺れは止まりました。

 

お客様が改めてお茶を入れてくださいました。

そして打ち合わせを始めたらまた揺れ始めました。

またお茶がこぼれてしまいました。

ほどなく揺れが止まりました。

そしてまたお茶を入れてくださいました。

 

ところがまた揺れ始めました。

今度はなかなか揺れは止まらず、どんどん大きくなりましたのでお客様と事務所の外に出ました。

私と事務員さんは「キャー」と声をあげて抱き合って逃げました。

外に出てもまだ揺れは止まらず、外の電柱が揺れていてとても怖かったです。

周りを見ると他の店舗の方も(駅前の商店がたくさんあります)外に出て様子を見ていました。

時間にして5分程だったのでしょうか、揺れは止まりました。

もう打ち合わせは中止にして、それぞれ自宅に電話をしたりして帰宅する事になりました。

お客様は「もし電車が動かなかったら戻って来てくださいね」と優しい声をかけてくださいました。

私はまだ大変な事になっている事など知らず、駅に向かいながら電車が動くか確認しようとしていました。

 

案の定電車は止まってしまっており、復旧の目処は立っておりませんでした。

駅前には電話ボックスがありまして、長い列が出来ておりました。

携帯でいくら電話しても自宅にも会社にも、お客様の会社の近くで働いている父にも繋がりません。

私の携帯には主人からの留守番電話が入っていました。

主人はこういう時すごいのです。必ず繋がる人なのです。

私はとりあえず電話ボックスに並び会社に戻れない事を連絡しました。

そして父の会社に電話しました。車に乗せて帰ってもらおうと思ったのです。

しかしたまたま父は入院してた祖母(今は他界)を転院させるため、早退しており連絡が取れませんでした。

後日聞いたところ、既に病院におり事なきを得たそうです。

私の携帯には近所の友人からメールが入っていました。

帰宅した娘たちを自宅で預かっているから心配するなと言う連絡でした。

私は友人に「申し訳ない、ありがとう。今は都内にいるが電車が動かないので帰宅の目処がつかない。分かり次第連絡するので宜しくお願いします。」と言うような内容を送りました。

 

さてどうしたものか、まったく状況がわからないので、駅の反対側にある大型ショッピングセンターに行ってみる事にした。

時間を潰すにも、情報を得るにも、どこかに行かなければと思った。

最悪は駅前のホテルに泊まるようかなとも思いつつ、空いてなければクライアントに助けを求めるかなどと悩んでいました。

ショッピングセンターの2階には電気屋さんがありTVが置かれています。

それを見ようと行くと、既にたくさんの人が集まってニュースを食いいるように見ていました。

そのため、あまり近くまで行けず少し離れた場所で映像だけを見ていました。

そこには日本地図が表示されていおました。

赤いマークで何かを知らせていました。しかしその時それは震源地などの知らせかと思っていました。

でもあれは津波の赤いマークだったのです。本当に怖いです。

しばらくすると主人と連絡がつき、迎えに来てくれるとの事でしたので数時間そのお店で過ごす事となりました。

最初はたくさんいた人も、徐々にまばらになっていき、お店も通常より早くしますとの連絡が入りました。

呑気にコーヒーでも飲んで待っていようと思ってましたが、コーヒーショップは先にしまってしまいました。

そうですよね、みんなだって帰らなくてはですね。

夜の7時過ぎに会社を出た主人が来てくれました。

この時やはり私も主人も、こんなに大変な事になっているとはまだ知りませんでした。

 

やっと帰宅すると、家の猫2匹はとても怖がっていました。

押し入れの中で震えていました。

 

娘たちの話では、娘たちの顔を見て安心したのか、普段は甘える時にしか鳴かないのですがミャーミャー鳴いていたそうです。

私は当日のうちに帰宅できましたが、立体駐車場が動かなかったお客様の事務員さんは2時間かけて歩いて帰宅したと後日聞きました。

 

それでも私たちは命があった。

だれも怪我もしなかった。

良かったけれど、、、後日震災の恐ろしさを知って、心からそれを喜べる気持ちには到底なれませんでした。

 

震災によりたくさんの事を考えさせられました。

それ以降、何かのポイントなどは震災に寄付するようになりました。

私は被災地に向かう事はできないけれど、この震災を忘れずに、風化させず、復興のお手伝いができるように少しでもしたいと思います。

 

どうか皆さんも忘れないでください。

 

 

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